詩篇16篇

ダビデのミクタム。

16:1 神よ私をお守りください。私はあなたに身を避けています。

 彼は、主に守りを求めました。ここでは、戦いにおける守りには言及していません。また、身近な友の悪からの守りに言及してもいません。具体的なことは何も取り上げられていませんが、彼のたましいが守られるという信仰の歩みの本質的なことを扱っています。

 彼は、主に身を避けていました。すべての守りは、主にあります。

16:2 私は主に申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」

 「あなた」という主語は、通常用いられませんが、「あなたは、私の主。」と言い表すことで、「あなたこそ」と強調しています。ダビデは、交わりの中の呼びかけで、そこに主がおられることを強く覚えて祈っていることがわかります。そして、その方以外に主がおられないことを言い表しています。

 「幸い」と訳されている語は、「よい」とも訳されますが、天地創造の業を神がご覧になられて「よしとされた」という語と同じです。彼は、自分に関して良いことは、神様が御覧になられて良いことと同じなのです。ダビデが良いこととして求めていたことは、神様の御心に適うことなのです。それが、人にとっても最も優れた祝福であるからです。

 私たちは、自分の幸いということを考える時、この世にあって満たされることを考えますが、ダビデのそれは違います。主の観点に立って、幸いを考えていたのです。

16:3 地にある聖徒たちには威厳があり私の喜びはすべて彼らの中にあります。

 「地にある聖徒に関しては」威厳があります。すなわち、彼らは力があり堂々としているのです。それは、主が支えられるからです。ダビデの喜びは、すべて彼らの中にありました。そのように、聖徒が主にあって堅く立つことが喜びなのです。それは、ダビデ自身が主の前に堅く立つことを望んでいることを表しています。。

16:4 ほか(の神)に走った者の痛みは増し加わります。私は彼らが献げる血の酒を注がずその名を口にいたしません。

 その聖徒とは対象的に、他のものに走った者たちがいるのです。「神」は意訳による補足で、原語にはありません。他のものが神を指すかどうかは、この詩篇からは判断できません。これは、主以外のものに走った者のことです。このことは、二節のことを受けています。主こそ最もよいものなのです。他のものは、それ以外のものです。偶像に特定すべきではありません。霊的比喩としては、偶像は、主以外のものを求めることですので、偶像としても良いですが、原語にその言葉はないのです。

 主以外のものに走った者の痛みは増し加わります。彼らは、自分の幸を求めて他のものに走ったのです。それは、自分をこの世で満たすものでしょう。本当の喜びと幸をもたらすと思って追求したのです。しかし、彼らの痛みは増し加わります。そこに喜びはなく、かえって痛みがあるのです。

 ダビデは、彼らが捧げる血の注ぎの捧げ物について、それを注がないと言いました。注ぎの捧げ物は、自分を捨てることを表しています。そして、ここで「血の」と形容されていますが、血は、いのちを表していて、命を捨てるほど自分を捨てることを表しています。しかし、彼らにとってそれは、偽善でした。主以外のものを求めて、自分の幸いを追求し、主から離れているのです。そのようなものがたとい血の注ぎの捧げものを捧げたとしても意味がありません。注ぎの捧げ物が表すことと全く逆のことを行っているからです。彼らのしていることは、自分の命を求めることであり、捨てることではありません。

マタイ

16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

16:25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。

16:27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

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 イエス様が十字架に命を捨てられたように、十字架を負うことは、自分を捨てることを表しています。自分のために生きるのではなく、肉に死んで自分を捨てて生きることです。そのような者に、永遠にいのちとしての報いが与えられるのです。

 ダビデは、彼らの名を口にしないと言いました。彼らの名とは、彼らの行いです。何一つ称賛に値するよいことがないのです。自分のために生きているからです。

16:5 主は私への割り当て分また杯。あなたは私の受ける分を堅く保たれます。

 主は、彼の割当分です。杯も、同じ意味で、神から与えられたものを表しています。そして、主は、彼の受ける分を堅く保たれます。この受ける分は、主ご自身です。彼は、主だけを求めていました。その方とともにあることが保たれることを祝福としていたのです。

16:6 割り当ての地は定まりました。私の好む所に。(測り綱は、私の好むところに落ちた。)実にすばらしい(十分な、豊富な)私へのゆずりの地です。

 測り綱は、彼の喜ぶところに落ちました。彼が望んでいたところです。それは、主ご自身です。彼が何を望んでいたかが明らかにされてます。十分なゆずりの地ですと言い表し、彼は、それによって満たされたことを表しています。

16:7 私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に夜ごとに内なる思いが私を教えます。

 「助言」は、神の言葉です。私たちは、知るべきことの全てを持っています。それは、聖書です。そのように、御心を教えてくださる方を褒め称えました。

 「内なる思い」は、腎臓のこと。これは、たましいの比喩です。そのたましいが夜に彼を教えるのは、主に従う歩みの経験を通して彼は学ぶからです。この教えられることは、実践を通して身に体得することです。

 ここには、知識に関して二つの面から取り上げられています。一つは、情報としての知識、そして、もう一つは、体得した知識です。

コロサイ

1:9 こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。

1:10 また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。

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 九節は、神の御心を知ることでこれは、情報としての知識を指しています。そして、十節は、神を知る知識で、真の知識で、体得することを表しています。

16:8 私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。

 彼は、常に主を自分の前に置いていました。これは、ダビデの態度です。いつでも主を認め、主を恐れて歩んでいたことを表しています。

 そして、主は、彼の右におられるので、揺るぐことがないのです。これは、主の応答です。主が彼の力となられることを表しています。

 このことは、十一節に、主の御前には喜びがあり、主の右に楽しみがとこしえにあることに対応しています。

16:9 それゆえ私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。

 「心」は、人の内面のこと霊とたましいを指しています。霊は、助言を受け、たましいも教えられます。それで喜びに溢れているのです。

 「胸は喜びにあふれています。」と訳されている部分は、「わたしの栄光を喜んでいます。」となっています。その栄光は、彼に与えられるものですが、たましいの歩みに対して与えられるのです。

 「身」は体を表しています。安らかに住むことができます。

16:10 あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

 これは、たましいの歩みについて歌われているのです。たましいが滅びの状態に置かれることはないということです。敬虔な者が、決してそのような状態に置かれることがないということです。すなわち、神の御心から離れて歩むような状態に至ることはないということです。神がそうされるからです。この節は、前節の理由として説明されています。また、前節は、その前の節を受けています。この節は、彼が揺るがされないということの説明になっているのです。たましいの歩みが揺るがされないからです。

 なお、この部分は、預言になっていて、イエス様のよみがえりに適用されています。しかし、ダビデに関しては、死んで葬られたままであることも語られていますので、ダビデの肉体の死について歌っているわけではありません。敬虔な者が死なないと言っているのではないのです。

16:11 あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。

 前節の滅びに対して、主が知らせてくださったものは、いのちの道です。満ち足りた喜びがあります。それは、主の前にあるのです。主とともに歩む道にあるのです。

 また、楽しみがその右に永遠にあります。右は、力を表していますが、神様が御力をもって事をなしてくださり、その栄光を見ることで楽しむことができるのです。